今の世に鼎の軽重を問う
今の世の中の様々な事に対して鼎の軽重を問う事をしてみたいと思います。<ヘッダー>

鼎の軽重を問うとは

鼎の軽重を問うと言うのは、今の時代でも使われている言葉です。
どういう意味かと言うと権威のあるものに対して、その実力を問うと言う事です。つまり、権威はあるけど、実力はない人に対して実力を試すと言う意味でもあります。

この言葉は、中国の春秋戦国時代に楚の荘王が周王室に対して問うた言葉として有名です。2000年以上前の言葉なのですが、今も生きています。余談になるのですが、現在の中国であっても「問鼎」という言葉がちゃんと存在しているのです。
しかし、鼎の軽重を問うと言うのは実力者が権威があっても実力のない物を試す言葉ですが、現代で下手にこれをやってしまえば、かなり恨みを買う事があるので注意が必要です。
後で話しますが、楚の名君である荘王も鼎の軽重を問いましたが、引き下がっている事実もあるのです。

鼎とは何か?

まず鼎について話をしたいと思うのですが、そもそも鼎ってなんだか分るでしょうか?

日本には長野県があり長野県には飯田市という所があり、そこにも鼎という地名は存在します。しかし、ここでいう鼎とはあまり関係がありません。
ここで言う「鼎」と言うのは、中国の伝説的な宝器である「九鼎」の事を指します。秦帝国以前の中国では、この鼎を持つ者が王者の証だったとされています。

中国の歴史と言うのは、伝説上の三皇五帝がいて、つぎに世襲王朝である夏王朝が始まるのですが、そこの始祖である「禹」という人物が作ったのが九鼎だとされています。九鼎の九と言う字も意味があり、当時の中国では9の州がありそれを鼎に例えて九つの足で立っている宝器になっていたようです。
形としては、沸騰器のような形をしていたのではないかと言われています。

夏王朝は傑王の代で滅ぶわけですが、滅ぼしたのは殷です。殷は九鼎もその時に、夏から引き継いだとされています。殷王朝も最後の王は紂王と言いますが、これが滅ぶと九鼎は周に伝わったとされています。
周の武王は牧野の戦いで紂王を破り、そのまま殷を滅ぼしてしまうわけですが、史記の周本記によれば、史佚という史官に命じて「九鼎保玉を展べる」と言う事をしたと伝わっています。

殷王朝の廟室をひらき九鼎と宝玉を並べさせて見分したと言うのです。さらに、史記の周本記を読み進めていくと「ついに営築して九鼎を居く」と言う記述があります。
武王の子供は成王と言いまますが、成王の代になって洛陽の地に新しい都を造営してそこに九鼎を置くと言う記述です。

ちなみに、この洛陽は西周時代は副都としての役割があったようですが、九鼎があったからか、幽王の代に鎬京は異民族などに攻められて荒廃してしまいますが、幽王の子である平王は洛陽を都にして周を存続させました。そして、洛陽が首都であった東周の時代に「鼎の軽重を問う」事件が起きるわけです。

鼎の軽重を問うの由来

鼎の軽重を問うの由来なのですが、春秋時代の話になります。
春秋時代の周王室は、国土は狭く、領土に関しても多くの諸侯の方が上回っていました。名目上は周王室の天下の主だったのですが、実力で言えば、その下にある諸侯の方が上回っていたと言う事です。日本でいう戦国時代のように武士の棟梁は室町幕府なのですが、実力で言えば大名たちの方があったのと似たような状態と言えます。
荘王は各地の諸侯を破り勢力はかなり増強されていました。キングダムと言う漫画がありますが、これよりも400年ほど前の時代です。言ってしまえばキングダムの世界の楚は全盛期よりも400年も後の楚なのです。楚は南の方の国になるわけなのですが、この時に楚は北上して周王室付近までやってきました。そこで「鼎の軽重を問う」と言う事をやったわけです。つまり、「周王室は実力が衰えているので、私(楚の荘王)が代わりに天下を経営してやろう」と言ったわけです。

ここで、楚の荘王に対応した周王室の臣は王孫満と言う人物だと言われています。王孫満は「周王室はまだ天命が尽きていないから、今は鼎の軽重を問うてはなりません」と言いました。
簡略的に書きましたが、結局、楚の荘王はそれで諦めてしぶしぶ帰ったと言われています。ちなみに、楚の荘王は春秋五覇に数えらえる事もある名君で、歴代の楚の君主の中でもナンバーワンの実力があると言われている人物です。

九鼎はどこに消えた?

春秋戦国時代までは、周王室が九鼎を持っていたとされています。しかし、周王室は結局、秦に滅ぼされてしまいます。

そうなればもちろん、九鼎も秦に移るのが当たり前の事でしょう。しかし、九鼎を秦に移動する最中に渭水に沈んでしまったともいわれています。これほどの宝器がなぜ渭水に沈んでしまったのかは分かりませんが、記録にはそのように残っています。秦の統治を九鼎も嫌がったと言う事なのでしょうか??
その後、始皇帝は渭水に1000人を潜らさせて九鼎を探させたと言われています。しかし、結局、見つける事は出来ませんでした。これにより九鼎伝説は幕を閉じるわけです。
日本においても安徳天皇と共に海に沈んでしまった草薙剣が見つからなかったように中国でも九鼎は見つかりませんでした。
ただし、九鼎が何で出来ているかは分かりません。
もしかして、鉄や青銅などの金属で出来ていればどこかに沈んでいる可能性もあるでしょう。しかし、かなり風化している可能性も高いです。もし、土とかそういう材質で九鼎が出来ていたとすれば、すでに跡形もなく消えていて当然だと思います。

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